3部
内山 美樹 さん
甲府市立東中学校二年
『顔の見えるお米』

 「いただきます。」
今日もご飯がおいしい。私は、ほかほかでつやつやしているまっ白いご飯が大好きだ。小さい頃から、食事の時はおかずよりもご飯とみそ汁と納豆があれば幸せだ。
 私の家では、スーパーなどでお米を買うのではなく、農家の方から直接買っている。それは父と母の「顔の見えるお米である」というこだわりであった。農家の方は藤森さんといい、大泉町に住んでいる。藤森さんの所へは、年に四回ほどお米を取りに行く。今年の六月、自宅のお米が残り少なかったので父が、
「大泉まで遠いなぁ。」
といつもの様に言いながら、お米を取りに行った。ところが家に戻った父は、なぜか表情が暗かった。どうしてかと思っていると、重たそうな口調で
「つい最近、藤森さんがガンで亡くなったそうだ。」
と言った。母は、
「あんなにも元気そうだったのに、信じられない。」
と驚いていた。毎日食卓に出てくるお米、部活の時のお弁当。私は藤森さんのお米が大好きだ。その大好きなお米がもう食べられなくなるかもしれないと思うと、残念でならない。
 そういえば以前、祖母が
「お米一粒には七人の神様がいる。だからお米一粒でも残すとバチが当るよ。」
と言っていた。お米の中の神様とは、もしかしたら農家の人の苦労や喜び、自信や誇りではないか。きっとお米を育てていく上で、たくさんの苦労を強いられているだろう。暑い中での農作業、病害虫や天候の心配、その中で苦しい思いをすると共に、無事収穫し、私達消費者に良いお米を提供できる喜びや自信。さまざまな思いが米一粒一粒に込められている様に思える。そう思うと、お米を無駄にすることは、農家の人々の気持ちを無駄にしてしまうことにならないだろうか。お米の一粒一粒に藤森さんの汗水たらして作っている顔や、収穫した米に満足している顔をだぶらせてみたら、胸にジンと来るものがあった。そしてその時、藤森さんが心を込めて作った一粒一粒のお米を残すことなく、無駄にすることなく、食べなければいけないのだと心から思った。
 藤森さんは亡くなる前、奥さんにこう言ったそうだ。
「内山さんのお米は、ちゃんと精米しておきなさい。」
自分の命が危ない時でも、お米を買っている私達に責任を果たそうとしてくれていた事に感謝したい。
 今日も私はとてもおいしいご飯を食べている。そして食べ終わった時、家族全員のお茶わんの中には一粒のお米も残っていない。家族一人一人が農家の人達が心を込めて作ったお米を残してはいけない、無駄にしてはいけない、という思いを忘れることなく大切にしていきたいからだ。
 最近、「食べるということは、命をいただくことだ」と言われている。私は藤森さんのお米を通してこれを実感している。
 藤森さんに伝えたい。
「いただきます。」
「ごちそうさまでした。」